古河電工アイスホッケー部が廃部を決定したのは、1999年第33回シーズンも佳境に入った頃のこと。
その記事を読んだ俺は「3年後のサッカーW杯を考えたら、ジェフは切れんか。」と思った。
俺はまだ、アイスホッケーの魅力に気がついていなかった。
その後、市民クラブ化を目指すような記事を読んだのだが「ホッケーでは無理だろ。」と俺は思った。
というのも、社会人野球の大昭和製紙白老がヴィガ白老というクラブチームになったものの
資金難から解散の憂き目をみているからだ。
野球でもそうなのだ、ましてや日本ではマイナースポーツに入るアイスホッケーでは......。
と考えていたんである。
しかし、スポーツ新聞の囲み記事に「署名10万人突破」とか「市民クラブ化へ弾み」
などの記事が載るにつれて俺の考えも変わってきた。
「実現したら、面白いことになるかもしれない。」
そして、古河電工アイスホッケー部の後を受ける形で「HC日光アイスバックス」が本当に実現したのである。
人口1万2000人の日光市民が、雪の日も雨の日も辻々に立って集めた10万人の署名が生み出した結果、
民意が企業と行政を動かして、元親会社の古河も支援を約束した。
大正14年から続くホッケータウン日光の「アイスホッケーの灯」は守られたのである。
「こうなったら、一度見ておこう。」と思った俺だが、第34回シーズンは観戦できなかった。
つまり俺はジャージに「元気寿司」のロゴの入ったヴァージョンは観ていない。
そして、第35回シーズン。
ついに俺は霧降を訪れた。
「電工リンク」には間に合わなかったけど、新ホームの霧降アリーナだ。
観衆2000人ちょっととはいえ、超満員のアリーナ。
選手たちが出てきたときの地鳴りのような歓声。
「俺はバカだった。なんでこんな面白いスポーツに今まで気がつかなかったのか?」
試合開始から1分、俺は本当に後悔していた。
試合こそ負けたけれども、みんながバックスを誇りにそして大事にしているのは良くわかった。
時系列で行くとバックスはこの時期「2度目の廃部問題」を抱えている真っ最中。
企業がスポーツチームをガンガン切っているご時世だ。
バックスが存在することで、他の競技でもバックスが生き残ったような流れができればいい。
そのためには、バックスは新しいスポーツチームのあり方として残すべきだ。そう思った。
この日の観戦後俺のスポーツに対する考え方が、バックスの存在によってコペルニクス的に
大きく転換していく。
そうだ、俺は良く考えれば「市民チームのパイオニア」広島カープのファンじゃないか。
そう思うと俺にはバックスを応援する素地があったのだと思う。
年が明けてしばらくして.........。
コンビニで「Number」を立ち読みしていたら衝撃的な記事を目にする。
バックスのGMを務める高橋健次氏がすい臓ガンだというのだ。
しかも、直後にはこの当時まだ1時間番組だったTBSの「ZONE」で高橋氏の特集が組まれた。
ホッケー覚えたて状態の俺には「なにがなにやら」という感じだった。
余命1年と言われていたが「バックスを何とかしたい。」という気持ちが氏を支えてきたのだろう。
命の期限を大幅に越えた高橋氏だが、ついに力尽きてしまった。
2002年8月15日のことだ。
もう少しで、10月6日の地元開幕だったのに........。
この夏さえ越せれば、なんとかなるんじゃないか?と考えていた俺の見通しは甘かった。
最後に姿を見たのは今年の3月11日。
東伏見で行われたバックスの最終戦だった。
日光は日本で一番熱い冬が送れる街。
それを影になり日向になり、導いてきたのは高橋氏である。
日光アイスバックスが、今でも古河電工アイスホッケー部だったら俺はアイスホッケーを観ていなかった。
そして「市民チームと企業スポーツ」という事にこれほどまで入りこむ事はなかった。
大きな存在が失われてしまった。
高橋健次氏。
享年53歳。

合掌..............。