タイトル:スカウト

著者名:後藤正治

出版社:講談社(講談社文庫)

価 格:本体¥733(+税)

ISBN:ISBN4−06−27314−6−0


◆カープ球団小史◆

1949年。
 戦後の復興期、翌年の朝鮮戦争勃発による「特需景気」へと進む日本の繁栄と歩調を
合わせるように、日本のプロ野球界へ参入を希望する企業が声をあげはじめた。
この流れを受けて、初代日本野球連盟である正力松太郎氏が日本球界の2リーグ制
を示唆。パセ分裂へと発展していく。
毎日新聞、近畿日本鉄道、松竹、国鉄等のチームが発足するに至るのだが、これら
新興チームにおいて1球団だけ、企業の資本ではない「市民球団」が結成されている。
セントラル・リーグへ加盟したその球団の名は「広島カープ」
原爆の焼け焼け跡から立ち上がった市民達に対して
「広島県民の心のより所となるような存在を作ろう」とスタートしたチームである。
監督には地元の広島商業出身で、タイガースの監督経験もある石本秀一氏が選ばれた。
「広島のための広島出身選手による広島のチーム」を理想としたが、選手はなかなか
集まらない、他球団にいる地元選手を獲得しようにも、それに見合うだけの金が支払えないので
大きな補強が出来ない。そこで、地元の社会人や学生、解雇されたプロ選手をあつめて100人
規模の入団テストを行い、陣容を固めた。
先ごろ惜しくも夭逝した、白石勝巳氏(元監督でもある)のように地元への「温情トレード」
のような選手加入もあった。
こうして、翌1950年に初のシーズンを迎えたカープだが新興球団は思うようには勝てない。
あまりの不甲斐なさにファンから「広商に行って野球を教えてもらえ!」とやじられる事もしばしば。
1950年のチーム創設から、大きな問題としてカープに付いてまわったのは「金銭問題である」。
遠征の際は同じ列車の1等車にジャイアンツの選手が乗っているのに、カープの選手は
3等車で床にゴザを敷いての移動を余儀なくされた。
しかも、セ・リーグ最西端にあるチームである。
東京へ着く頃には選手の疲労度もピークに達して、本来なら野球どころではない状態であった
と思う。今のように立席でも快適に移動できる時代ではないのだ。
チームの解散騒動から民意による存続決定。
(このあたりは、アイスホッケーの日光アイスバックスの存続活動と重なる部分が多くある。)
酒樽募金などの地道な活動がベースとなって、結晶となったのは1975年10月15日。
チーム創設から26年目のシーズン、古葉竹敷監督率いるカープは「赤ヘル旋風」を巻き起こして
初のセ・リーグ制覇を成し遂げた。
カープがここまで来れたのは、選手と首脳陣だけの努力ではない。
表に出ない、チームスタッフの苦労がその根底を支えているのだ。
この本で紹介されている「スカウト」という仕事もその一つである。

◆カープを支えた男◆

 この本の主人公である木庭 教(きにわさとし)は、1926年生まれというから、現在は75歳。
広島出身だが父の仕事の関係で各地を転々とした後、広島に戻ってくる。
そして広島商業に進学して野球部へ。
在学時に教員だった久森忠男が事務局長としてカープに入団したことが後に、木庭の人生に
大きな変転を呼び込む。
転居していた岡山での偶然の邂逅がきっかけで、1957年カープにスカウトとして入団する。
カープが本拠地としている市民球場が、建設中の頃だ。
どの球団もまだ「編成部」や「育成部」という部署を置いていなかった時代、選手の
スカウティングは監督や球団代表が噂(あるいは学校や会社の関係者の売り込み)を頼りに、
有望な選手の元へ調査に赴くのがほとんどだった。
スカウトして、最初に入団させた選手の第一号は佐々木有三であった。
しかし佐々木は、在籍6年でさしたる成績も残せないままカープを去った。
この後、衣笠祥雄、現監督の山本浩二、金城基泰、水谷実雄、三村敏之、高橋慶彦、大野豊、
川口和久、正田耕三......。
黄金時代を支えた、選手達が木庭の手腕によってカープへ入団してくる。
特に、正田は木庭の最後のヒットと言える選手である。
ホエールズの監督に就任した古葉に請われて、カープから移籍。
その後、上田監督に請われてブルーウェーブ→ファイターズと球団を渡り歩くことになる。

◆選手作り◆

 木庭がカープのオーナー松田常次から教わった姿勢に「選手作りは人作り」
というものがある。
これは「野球選手は長くても10年、野球しか知らない若者にとって野球の後の人生の方が
ずっと長い。カープで育った選手は他でもきちんと挨拶ができるような選手であってほしい。」
との考えから教えられたもの。
そのため、どんなに年俸の高いスター選手でも年長者の前では正座で対するのが礼儀であった。
単なるオート三輪メーカーの「東洋工業」をロータリーエンジンで「世界のマツダ」に発展させた
松田の社会理念でもあったのだろう。
ただ、松田オーナーはカープの優勝を見ることなく亡くなってしまう。
 この「人作り」は選手がカープを離れた後にスカウトがケアすることもある。
1983年のドラフト5位で石本龍臣という投手が入団した。
彼の一軍登板はなし在籍2年でチームを去っている。
それには理由がある、石本には「眼球振とう症」という病におかされていた。
速いものに一瞬焦点があうのが遅れるのである。
プロの打球をさばくのに、これは致命的な欠点だ。
高卒の選手が2年で解雇される事はほとんど無い。
3年は育成期間と球団も考えるからだ。
石本もスポーツ選手としては滅多にない、病気に罹ってしまったものである。
足の速い投手であった石本を木庭は、忘れていなかった。
実家に帰っていたところへ連絡が入る。
「次のあてが無いなら、競輪選手になってみないか?」
このころタイガースのテストの結果待ちだった石本は、一度は返事を保留したものの
結果が出た直後に、木庭に連絡を取る。
親交のあった、競輪選手佐古雅俊が師匠となり石本は競輪という新たな世界でのスタートを
切る事になった。
現在、A級3班でしぶとくレースを続けている。
スカウトというのは球団に入れたら終わりではなく、入れた後そしてチームを去るときの
ケアも大事なのだろう。
カープ→オリオンズ→ブルーウェーブに在籍した杉本正志が言う。
「球界の関係者で、年賀状を送るのは木庭さんだけです。」
杉本はカープの入団とブルーウェーブの入団に際して木庭の世話になっている。
そして、現在はサラリーマンの傍ら少年達に野球を教えている。

◆スカウト◆

 木庭スカウトを追って書き続けられたこのノンフィクションは、取材開始から
4年近くの年月を経て世に出ることになった。(初出は1998年10月講談社から)
自由競争時代、ドラフト、逆指名ドラフト、と選手の獲得条件も年を経る毎に変わってきている。
ただし、これは現場の要請ではなく球団トップが恣意的に決めた事。
昔のような未知なる原石の発掘というのが少なくなってきている。
ただし、木庭が30年在籍したカープは今でも「素材重視」のドラフトを続けている。
これはカープ球団の台所事情もあるが、石本監督の「選手は育てる方が面白い」という
考えが根底に根付いているからではないか?
今ではプロ野球12球団すべてにスカウト部門が設置されて「スカウト」という職種が
球団経営のシステムとして機能している。
それに伴って昔の「人買い」のイメージや「フラリとグランドに現れるおじさん」といった雰囲気は
希薄になった。
木庭教というスカウトはその頃の匂いを残した、男だったのだろうと思う。
その木庭も現在は、スカウト業から引退して余生を楽しんでいる。
この秋のドラフトからは「自由競争枠」が設定される。
スカウトの手腕が問われることになりそうだが、それでいいのか?
という疑問は残る。
この本は、なによりも球界のトップ連中が読むべき本だと俺は思っている。


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